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馬忠 (蜀漢) : ミニ英和和英辞書
馬忠 (蜀漢)[ば ちゅう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [うま]
 【名詞】 1. (1) horse 2. (2) promoted bishop (shogi) 
: [かん]
 (suf) man (negative nuance)

馬忠 (蜀漢) : ウィキペディア日本語版
馬忠 (蜀漢)[ば ちゅう]

馬 忠(ば ちゅう、? - 249年)は、中国後漢末期から三国時代の武将。蜀漢に仕えた。字は徳信。子は馬修。弟は馬恢。益州巴西郡閬中県の出身。『三国志』蜀志に伝がある。
== 生涯 ==
かつて母方の家で養われ、姓は狐、名は篤であった。後に馬忠と改めた。郡吏を務め、建安年間の末に孝廉で推挙され、漢昌県長となった。劉備夷陵の戦いで敗れた際、巴西太守閻芝が諸県の兵五千人を徴発して馬忠に率いさせ、援軍として派遣した。劉備は永安で馬忠に会い、劉巴に「黄権を失ったが、狐篤を得た」と言った。
建興元年(223年)、諸葛亮丞相府を開幕した時、馬忠を門下督とした。建興3年(225年)、諸葛亮が南中に至ると、馬忠を牂牁太守とした。朱褒の反乱を鎮圧した後、馬忠は威厳と慈しみをもって民の慰撫に勤めた。建興8年(230年)、召されて丞相参軍となり、蔣琬の副長吏となって留府の事務にあたった。このとき益州の治中従事を兼任した。建興9年(231年)、諸葛亮の祁山出征にあたり、馬忠は諸葛亮の下で軍事に携わった。祁山から戻ると張嶷らを率い、汶山郡で反乱した族を討った。
建興11年(233年)、南夷の豪帥であった劉胄が反乱した。降都督には、建興9年(231年)に李恢と交代して張翼が就任していたが(「李恢」伝)、張翼は厳格に法を執行しようとしたため、異民族の反発を買っていた(「張翼伝」)。朝廷は張翼を召還して馬忠に交代させた。張翼が軍備を前もって整えていたこともあり(「張翼伝」)、馬忠は劉胄を斬って南土を平定した。監軍・奮威将軍を加えられ、博陽亭侯に封ぜられた。かつて益州の郡では、太守が殺されたり捕えてに送られたりしていたので(「張裔伝」も参照)、前任の降都督は平穏な県に常駐していた。しかし馬忠は敢えて庁舎を奥地の県に移した。また張嶷を率いて越郡の失地を回復した。この功により安南将軍となり、彭郷亭侯に封ぜられた。
延熙5年(242年)、朝廷に召還され、ついで漢中に駐屯していた蔣琬へ詔を伝えた。馬忠は鎮南大将軍を拝命した。延熙7年(244年)、費禕軍の攻撃を防戦するにあたり、馬忠は成都に留まり平尚書事に就任した。費禕が帰還すると、馬忠はまた南方に派遣された。延熙12年(249年)、逝去した。
子が跡を継いだ。弟の子であった馬義は、西晋代に建寧太守となっている。また、『晋書陶璜伝によると、「巴西の馬融」が交趾太守に任命されているが、馬融と馬忠の血縁関係は不明である。
馬忠は人となり寛大で公正、度量があり、戯言に大笑するが怒りは顔に出さなかった。決断力に富み、恩威を並び施したため、任地の住民から畏敬された。馬忠が亡くなると住民は涙を流して哀しみ、馬忠の廟を立てて祭った。降都督は張表閻宇が後任となったが、風格や功績の点ではいずれも馬忠には及ばなかった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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